いつもとは違う、その日は夜行バスの中で「ぼくらとみんなは生きている」のZoomミーティングを聞き流していた。短い夢とカーテンから漏れる高速の光がまぶたの上で交差する。彼らは今回の公演について話していた。誰かが、「わざわざ移動してきて会話してるだけ」と、笑って言い表したのを聞いた気がした。環状につづく気だるい雑談が同時に心地よく、浅い眠りに取り込まれた。
「ぼくらとみんなは生きている」は、2018年頃から活動する大川原暢人、川又健士、迫竜樹の3人による共同体である。これまでに東京、京都、北海道で展示を行ってきた。私は2025年の初夏から、企画した展示をきっかけに「ぼくら」と関わり始めた。しかし実は、彼らの公演をまだ一度も見たことがない。いまだに彼らのことがわからないままでいる。
ぼくらに関するステートメントは、彼らの会話の内容や関連語をただ「置く」ことが頻繁になされる。そこに「ぼくら」個人を説明する言葉はほとんど見当たらない。明確に個人を分けて認識されることを望んでいないように見える。個人の学歴や立場など、美術(社会)的な理解を促すための複雑な背景情報を知る必要はないということだ。では、この人たちをどうとらえるか?作品内で話していることは、同級生間の雑談のようだ。
そもそも雑談ってなんのためにするの?仲良くなるためにするんじゃないかな。もしくは、相互に敵ではないということを認識するため。私たちはどんなに遠い国の人とでも雑談ができる。それを彼らは、この小さな共同体で続けている。誰のためでもなく、自分たちのために。彼らはこの輪を広げていくつもりも、権威の構造を逆転させるつもりも、今のところはないようだ。自身の内側を言語化するのでも形あるものにするのでもなく、そのまま泡にするのだから。泡に何かを変える力はなく、こぼれ落ちて足場をぬめらせ、最後は自分たちで洗い流すことになる。
しかし、会話の内容は循環し、発言の中で役割が移り変わる。彼らは個人を特別にすることも卑屈に扱うこともせずただ等置する。活動のなかで出会った人と話し、作品や展示を作り、その中で、ただ3人の輪を回転させ続ける。
「回転成形」だ。昔見た、大きな遊具の作り方を思い出した。素材の偏りを生じさせる要因である重力や遠心力を平均化するために、2種類の運動のバランスによって形を作る。自転によって内部の均一性を生み、公転的な運動によって外形の均整を取る。ぼくらも、会話という内的な自転運動と、他者との関わりや移動という公転的運動を必要とする。そうすることで、継ぎ目のない、全体が平等で、どこにも差のない状態を作り出すことができる。
彼らはただ1人で制作を続けることを選択しなかった。できなかった。日々、働き、食べて眠り、制作する。時に内部のバランスは崩れる。形を維持するために、この2軸の運動を起こす。様々な環境で会話を見せることによって共同体を保つことができる。私たちはそれを見ることで、回転環境に取り込まれる。
ぼくらは「変わりたい」と言ってこの作品を作り始めた、らしい。会話で関係性を見せること、無力を引き受け、そのままであろうとすること。そしてその形成のために私たち、他者を環境として利用すること。彼らは変わったのだろう。それが自分たちのためだと言い切ることができる。何も特別なことはない。ぼくらと私たちはただここにいて、それぞれに回って、保たれていくことを認識する。光を内と外に反射させながら回る、宙に浮かぶひとつの泡を見て、そういうことを考えた。
10/25 23:19 澤田詩園

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